2025.4月号 編集部だより【親日国ウズベキスタン。その背景にあること。】
2025年03月22日 更新▲みなさまこんにちは。
今回のシルクロード特集は、いかがでしたでしょうか?
中でも、ウズベキスタンの「青の街」サマルカンドは、ため息が出るほど美しく、魅力的な印象を与えてくれますね。

画像:iStock
自由に海外旅行へ行けるようになりましたが、日本人の観光渡航先として中央アジアは、まだまだ未開の地です。「中央アジア」と言われても、そのイメージはピンとこない方の方が多いでしょう。西アジア(中東)とも区別されるこの地域は、なぜだかすっぽり意識から遠ざかってしまっているのが現状ではないでしょうか。 ほぼ国名に “スタン”がつくのでややこしく、危険なイメージが固定的な観念になっていることや、旧ソ連だったことなどが馴染みにくい要因かと思います。これまでは、ビザや滞在許可の登録手続きが面倒であったことからも、日本からは行きにくい地域だったと考えられます。
ですが、調べてみたら、意外にも安全で美しい歴史的な煌めきを持っている国々があることがわかりました。特にウズベキスタンは、2016年から大統領が変わったことによって、観光大国を目指すべく、旅行のしやすさにも力を入れているようです。最近では、トルクメニスタンの「地獄の門」とパックツアーに組まれているプランも出回っているようです。「地獄の門」は砂漠の中のテント泊となりますので、ちょっとハードルが高いですが、サマルカンドは、女性ひとりの個人旅行も可能な所ですので、レアな旅行先をお探しの方には、ピッタリかもしれません。行ってみたいと思っていただけましたら、幸いです。
★★★
ウズベキスタンについては、少し補足を記述します。
ウズベキスタンは、大変な親日国でもあります。それは、第2次世界大戦末期に遡ります。ポスダム宣言後に多くの日本人がソ連に抑留され捕虜とされました。旧ソ連であったウズベキスタンにも約2万5千人もの兵士が連行され、夏は最高気温が40度、冬は最低気温がマイナス20度にもなる過酷な気候環境の中で強制労働を強いられました。そのような状況下にありながら、私たちの祖先は、日本人としての誇りを捨てることはなく、ウズベキスタンの地で勤勉さを維持し、水力発電所や学校など多くのインフラ整備を進めました。その中でも特に有名なのは、頑強でデザイン的にも美しい建築物として知られる「ナヴォイ劇場」です。現在でもオペラやバレエの上演に使用され、ウズベキスタンの紙幣にも描かれています。満足な食事も取れない中、日本人の勤勉ぶりと仕事の質の高さに現地の人々は驚きを隠せなかったようです。多くの母親が子供たちに「日本人のように勤勉でよく働く人間になりなさい」と言い聞かせたそうです。

画像:iStock(ナヴォイ劇場)
1966年、ナヴォイ劇場のあるタシケント市は、マグニチュード8の巨大地震に襲われましたが、ナボイ劇場は何事もなかったように何ひとつ壊れることがなかったのです。被災者の避難場所として多くの人命を救ったことから、今でもウズベキスタンでは「地震が来たら、日本人が造った建物に逃げろ!」と語り継がれているそうです。
過酷な状況での苦難に折れることなく、日本人の精神性を示すことによって名誉を残そうとした日本兵は、ウズベキスタンの人たちの手本となり感銘を与えています。当時、ウズベキスタンで亡くなった兵士は800人以上。戦後、簡素であった日本兵の墓は、ウズベキスタンによって整備され、今でも手厚く守られています。その返礼と、そして祖国に帰れなかった兵士たちを慰めるため、日本からは、1000本以上桜の木が贈られています。私たちの祖先のおかげでウズベキスタンと日本の友好の絆が結ばれているのです。こうした経緯があり、ウズベキスタンは今でも大変な親日国であり、日本語や日本の文化を学ぶ方も大変多いのだとか。
ナヴォイ劇場には、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれています。日本人として知っておくべきことであり、忘れてはならないことでもあります。
今回、ウズベキスタンを観光視点で取り上げましたが、補足して、このエピソードをお伝えいたします。ウズベキスタンを訪れることがありましたら、ぜひ胸を張って現地の方と交流してみてくださいね。
それでは、また来月〜。
(編集部anan)